和紙、柿渋
美濃手漉き楮(こうぞ)和紙柿渋紙、手漉き和紙で作った和傘、座布団、枕などのインテリア雑貨、和紙製の風呂敷、鞄、メッセージカード、
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美濃手漉き楮(こうぞ)和紙柿渋紙・美濃和紙で作ったおしゃれな商品、和傘、風呂敷、座布団などのSIBSI36のコンセプト

柿渋紙・美濃手漉き楮(こうぞ)和紙・手漉和紙・手漉き和紙和紙で作った和傘、風呂敷、座布団などSIBSI36のテーマ

美濃手漉楮(こうぞ)和紙柿渋紙・手漉き和紙和紙で作ったインテリア雑貨、和傘、風呂敷、座布団などSIBSI36の商品紹介

和紙で作ったおしゃれな小物・手漉和紙・手漉き和紙などのおしゃれなインテリア雑貨・和モダンのライフスタイルをプロデュース、SIBSI36のセントラルトレーディング会社紹介


SIBSI36で使用している和紙の特長とは?
和紙は薄くかつ強靭で寿命が比較的長く、風合いが美しいとされるのが特徴。洋紙と比べて品質的には優れているとされる。その反面、現在では生産性が低いために価格が高いが、薄く強靱で世界で最も優れた紙と言える。世界中の文化財の修復に使われる一方、1000年以上もの優れた保存性と、強靱で柔らかな特性を利用して、日本画用紙、木版画用紙等々、独特の用途を確立している。一部工芸品の材料・家具の部材・紙塩など一部の用途にも使用され、江戸時代には日本中で大量に生産され、建具の他に着物や寝具にも使用されていた。
また、日常生活の中では紙幣の素材として用いられる。近年は天然自然の素材として、インテリア向けの需要も高まっており、卒業証書をはじめ、様々な習い事のお免状用紙などは越前和紙の透かし入りの鳥の子、局紙、もしくは檀紙などが現在も試用されている。近年では、愛子内親王や悠仁親王の命名の儀に古式にならい、越前檀紙が使用されて話題になった。和紙の産地は全国に点在しているが、代表的な産地として「越前和紙(えちぜんわし)」「美濃紙(みのがみ)」「土佐和紙(とさわし)」があり、3大和紙産地と呼ばれている。

SIBSI36で使われている和紙の歴史を紹介します
紙の伝来 -飛鳥時代-紙漉きの伝来
製紙技術の日本への伝来は、地理的条件からヨーロッパへの伝来と比較して500年以上も早い。
『日本書紀』に、推古「十八年春三月 高麗王貢上僧 曇? 法定 曇?知五經 且能作彩色及紙墨 并造碾磑 蓋造碾磑 始于是時歟」、高句麗の王、僧曇徴、法定を貢上る。曇徴は五経を知れり。また能く彩色及び紙墨を作り、併せてみず臼(水車を利用した石臼)を造る とあるように、飛鳥時代の推古天皇18年(610年)に高句麗の僧侶曇徴によって紙漉きと墨の製法と、紙の原料となる麻クズの繊維を細かく砕く(繊維の叩解)ための石臼が伝えられた。日本への伝来に比較してイスラム世界への伝来は140年後の事で、しかも戦時捕虜として伝来した。当時、製紙法は国家機密であり、高句麗からの技術の伝達は信頼の証として伝承されたものである。古くから朝鮮半島と交流のあった日本には、こうした事から比較的早い時期に伝来したのである。

原材料別による紙の種類
麻紙
最も古くから漉かれた紙が麻紙である。原料は大麻(Hemp)や苧麻(Ramie)の繊維や、麻布のボロや古漁網などである。麻は繊維が強靱で、多くは麻布を細かく刻み、煮熟するか織布を臼で擦り潰してから漉いた。漉き上がった麻紙は表面が粗いので、紙を槌で打ったり(紙砧)、石塊、巻貝、動物の牙などで磨いて表面を平滑にした。次に、空隙を埋めるために、石膏、石灰、陶土などの鉱物性白色粉末を塗布した。更に墨のにじみ(遊水現象)を防ぐため、澱粉の粉を塗布するなどの加工を行った。取り扱いが難しいので、次第に麻と同様に繊維が強靱で、取り扱いが容易で、増産に適した穀紙と呼ばれる楮を原料とした紙が普及した。

穀紙
穀とは梶(楮)の木のことで、若い枝の樹皮繊維を原料とした。麻紙と同様に煮熟して漉いた。表面の肌理がやや荒いが、繊維が長いため丈夫な紙となり、写経用紙や官庁の記録用紙、更には建築材料として、染色されずにそのまま使用された。
斐紙(雁皮紙)
斐紙は雁皮を原料とした紙で、繊維が短くて光沢があり、肌理の細かいつやのある紙であり、その風格から「鳥の子紙」とも呼ばれる。
檀紙(陸奥紙)
檀紙は主に弓を作る材料であったニシキギ科の落葉亜喬木である檀(真弓)の若い枝の樹皮繊維を原料とした紙で、「みちのくのまゆみ紙」とも言われ、厚手で美しい白色が特徴である。
用途別による紙の種類
『正倉院文書』には、彩色紙として植物で染色した五色紙・彩色紙・浅黄紙など10数種類が、加工紙として金銀をあしらった金薄紫紙・金薄敷緑紙・銀薄敷紅紙など10数種類が、加工法の違いとして打紙・継紙(端継紙)が、形と性質の違いとして長紙・短紙・半紙・上紙・中紙が、用途の違いとして料紙・写紙・表紙・障子料紙(間仕切り用)の名が見え、日本での製造を確立出来たことが窺える。
奈良時代の紙文化
この時代の紙を利用した文化としては、国家が仏教を信仰していたこともあり、主として仏教文化への関わりが深く、紙や布、漆を原料とした紙胎仏や数多くの経典が作成されている。中でも宝亀元年(770年)に作成された百万塔陀羅尼は、現存する世界最古の印刷物であり、ヨハネス・グーテンベルクの活版印刷に比すること約700年も前の物である。

書物としての紙の伝来
製紙技術の伝来以前に、むろん紙そのものは書物として伝来された。『古事記』によれば、応神天皇16年(285年)に、百済の王仁が『論語』10巻と『千字文』1巻を将来したのが、日本における書物の初伝とされるが、『千字文』の作者は、応神天皇より100年後の人物であるので、考証学上は誤りである。考証学的には、4世紀から5世紀には伝来したものと推定される。

紙の国産化 -奈良時代-図書寮の設置
製紙技術の伝来から100年程経過してから、本格的な紙の国産化が始まった。『正倉院文書』によれば、天平9年(737年)には、美作、出雲、播磨、美濃、越などで紙漉が始まった。
『大宝律令』によって国史(『古事記』『日本書紀』)や各地の『風土記』の編纂のために図書寮が設置され、紙の製造と紙の調達も管掌した。図書寮では34人の定員の内、写書手は20人、紙漉きを行う造紙手は4人いた。更に図書寮の下に、山城国に「紙戸」と呼ばれる50戸の平民の紙漉き専業家を置き、年間の造紙量を二万張と規定し、租税を免除して官用の紙を漉かせた。この他にも各地で紙を漉かせ、これを「調」として徴収した。天平11年(739年)には、写経司が設置され、写経事業のために紙の需要が拡大した。『図書寮解』の宝亀5年(774年)の項によると、紙の産地として、美作、播磨、出雲、筑紫、伊賀、上総、武蔵、美濃、信濃、上野、下野、越前、越中、越後、佐渡、丹後、長門、紀伊、近江が挙げられている。しかし、この時代には、紙はまだまだ数が少ない高級品で、日常的に使用されることはなく、一般的な用途には安価で丈夫な木簡が使用されていた。また、一度使われた紙の中にはその裏面を再利用して別の筆記に用いる例も存在した(紙背文書)。

流し漉きとは
流し漉きとは、紙漉きの際に、紙料(抄けるように処理された紙の原料)を濾水性の簀や網を動かして、紙料を簀に汲み込んだり紙料を簀から捨て戻したりして、簀や網の上に紙層を作る漉き方。日本、中国、朝鮮半島など東アジアで発達した漉き方で、日本の流し漉きと中国・朝鮮の流し漉きの方法は異なる。

中国・朝鮮の流し漉き
まず中国・朝鮮の流し漉きは、紙料を汲み込む動作と紙料を捨て戻す動作を漉き簀を振り子のように揺らす一連の動作で行い、所定の紙厚が得られるまで漉き簀を往復させて抄紙する。中国・朝鮮の流し漉きは比較的薄い抄紙用粘剤でも漉くことが可能である。

日本の流し漉き
次に日本の流し漉きについて述べると、中国・朝鮮の流し漉きに類似する部分と日本独特な漉き方の部分で構成されているのが特徴である。紙の表面と裏面の紙層を作る時には、中国・朝鮮の流し漉きと同様に、紙料を汲み込む動作と紙料を捨て戻す動作を一連の動作で行い「化粧水」(紙表面)と「捨て水」(紙裏面)の薄い紙層を作るが、表と裏の中間の紙層(紙の厚みの部分)を作る技術は日本独特で、汲み込んだ紙料をしっかりと粘剤を効かせて繊維同士を絡ませるために、紙を均一にするように簀を十分に振って(時には上下、縦・横に振って)紙層を作ってから不要な紙料を捨て、また次の紙料を汲み込んで必要な紙厚が得られるまで繰り返す。これが日本の流し漉きの特徴である。

通入障子
一本の樋(溝)を設けて落とし込み、取り外し可能な張り付け壁の副障子が基となり、後に鴨居と二本の樋を設けて開閉して通り抜けが可能な、通入障子(鳥居障子)が発明され、更に遣戸や襖障子に発展し、遣戸は廊下と室内の間仕切りに、襖障子は室内の間仕切りに使用された。

明かり障子
明かり障子の優れている点は、壁や遣戸のように外界とは遮断せずに、外界の雰囲気を光と陰で取り入れて、住人に自然の暖かみを与えている事である。遣戸は、開閉自在ながら、閉めると室内が暗くなり、冬には、寒くとも採光のために、遣戸を少し開けておかねばならず、明かり障子の発明が求められていた。
まず、明かり障子は遣戸の杉板の代わりに格子状の木枠に薄絹を張ることで採光を行っていたことが、『平家納経』の図録に見られ、その後、徐々に細い組子桟の今日的な明かり障子へと進化し、文書を日光消毒する際などに四面に立てて使用されていた(『江談抄』)。しかし、明かり障子は風雨の激しい時には、障子の下の部分が濡れて破れ易いため、その際には半蔀戸を釣って内側に明かり障子を立、下半分の蔀戸は立て込んだまま使用していた。こうした状況から、明かり障子の下半分に板を張った半蔀戸と同じ高さの腰板付きの障子が考案された。鎌倉時代以降、書院造の普及につれて、明かり障子も普及し、『大乗院寺社雑事記』には、障子用として厚紙130枚を使用したという記録があり、歳末に障子紙を張り替える風習は、この時代からあったようである。

採光を目的とする明かり障子には、透光性が良い薄い紙が適切なのであるが、破れ難い粘り強さも必要となり、また、大量に使用するため、安価な物が好まれた。このような条件を満たす紙としては、壇紙や奉書紙、雁皮紙は不適当であり、明かり障子用の書院紙として雑紙や中折紙などの文書草案用や雑用の紙が採用され、中でも美濃和紙は美濃雑紙と呼ばれて、多用途の紙として最も多く流通していたので、障子紙としても使用され、美濃和紙が明かり障子紙の代表紙となった。

手漉きの紙と機械漉きの紙の違い
 機械漉きの技術はめざましく進歩していて、手漉きと見間違えてしまうものも少なくありません。そういう紙は別として、手漉きと機械漉きの決定的な違いは紙の連続性にあります。簡単に言うと、手漉きは大きさ(幅と長さ)が限られた一枚のシートです。機械漉き紙は、長さが無限(実際には機械の生産能力による限界がある)に連続して漉くことができるということです。トイレットペーパーを見ると分かりますね。

抄紙用粘剤を使った流し漉きの開始
抄紙用粘剤の使用による流し漉きが、いつどこでどのように始まったのかははっきりとしないが、高品位な薄様紙(原料は雁皮(日本)や楮(朝鮮)と推定される)のことや抄紙用粘剤の使用(中国)に関することが、平安時代や唐代末になり日本や中国で記述されているので、この時代以前に使用が開始されたものと推定され、抄紙用粘剤使用に繋がったとされる有力な説のひとつに後加工用粘剤の流用説がある。これは古代中国で開発され、後に朝鮮、日本でも行われていた紙の加工技術「打紙」加工用粘剤「滑水」を抄紙用粘剤に転用したものという説で、日本でも楡(ニレ)の皮の粘液は打紙にも抄紙にも使用されていたとされる。ニレと同じように古い時代の抄紙用粘剤として実鬘(サナカヅラ・サネカヅラ)の茎の外皮などがある。抄紙用粘剤はネリ、サナ、トロ、ノリ、タモ等と地域ごとに異なる『粘状物質』名称がつけられて愛用された。

抄紙用粘剤の多様性
近世に使用技術が確立し現代に伝わる流し漉きの抄紙用粘剤として一番有名な粘剤に、中国原産の植物で強い粘性を持つ黄蜀葵(和名:トロロアオイ)の根がある。これは日本、韓国、中国等の東アジアの国々や地域で使用されており、世界の流し漉きの産地や紙造形作家にとって欠くべからざる粘剤ではある。しかし、黄蜀葵には夏季高温による著しい粘度低下が起こる性質があるため、南国台湾では馬拉巴栗(根の粘液)という30℃〜35℃の高温域でも黄蜀葵より粘度低下の少ない粘剤が使われ、日本の糊空木(ノリウツギの皮)も夏季に強い粘剤とされ奈良県吉野の産地等で使われている。またトロロアオイは兵庫県の名塩紙のように、7種類もの土を用途に合わせ紙に漉き込むような紙にも使用されない。トロロアオイは化学的に活性な土と反応して粘性が低下することがあるからである。さらに短繊維の稲ワラ繊維を70%も配合して紙を漉く中国安徽省の宣紙の産地では、極めて低い粘度の粘液だが短繊維を漉くのに相応しい低粘度域で調整が容易な楊桃藤(つる茎粘液)を使用し黄蜀葵は使用しない。このように抄紙粘剤の選定は地域性や紙用途による依存性と選択性を有しているが、このことは粘剤使用技術が「何でも良いので粘性物質を配合すれば紙質が改善する」という情報伝達型の技術伝播である可能性を示唆し、物的証拠が残り難いこともあり、抄紙粘剤使用と流し漉きの技術史を曖昧なモノにしている。
抄紙用粘剤の効用
抄紙用粘剤を適量使用して漉きあげると、漉きあがった湿紙をその直前に漉いた湿紙に直接順次積み重ねていくことが、簡単に出来るようになる。積み重なった湿紙の集まりを「紙床」といい、紙床はしっかりと圧力を掛けて湿紙をまとめて脱水することが容易になり、それ以前の紙と比較し締まった紙となり、まとめて脱水した後も一枚一枚に剥がせるという特性があり生産性も向上した。なお床積み技術がいつごろどこで開始されたのか明確ではない。
そして乾燥して完成した紙には、外観上の変化はみられないが、紙に残った天然の抄紙用粘剤の成分は、紙のカレ(紙中に残留する樹脂分が、空気中の酸素と反応する現象で、カルシウムなどが正の触媒として働く自然酸化現象といわれる)を促進し、長い時間をかけて紙に穏やかな撥水性を与える。
美濃和紙(みのわし、Mino-washi - Japanese paper)とは岐阜県で製造される和紙である。1985年(昭和60年)5月22日に、通商産業省(現経済産業省)伝統的工芸品に認定されている。
概要
寺尾(現在の岐阜県関市寺尾)で生産される和紙が特に有名で、『和漢三歳図会』では障子用の書院紙、包み紙、灯籠用として使用していたと記し、『新撰紙鑑』では徳川幕府御用の製紙職人として、市右衛門、五右衛門、平八、重兵衛の名を挙げている。また、寺尾の他にも牧谷、洞戸、岩佐、谷口で生産される物も良品である。当然ながら、産地毎に製紙に使用する水が異なるため、生産された和紙の風格もそれぞれ異なるほか、得意とする種類も産地によって異なった。

書院紙
『岐阜県史稿』によれば、二折、三折の美濃和紙があり、障子の格子幅に合わせてそれぞれ使用されていた。
絞書院紙
紋書院紙とは、透かし文様入りの書院紙であり、美濃の他、筑後柳川や肥後でも生産され、肥後産のは特に透かしが綺麗であった。
美濃の紋書院紙は、鹿子・紗綾形・菊唐草・七宝 ・亀甲などの紋様を漉き込み、障子以外にも灯籠用に使用された。21世紀現在、岐阜市で生産される落水紙(美光紙)にも、紋書院紙風の物がある。

和紙と日本家屋
夏に高温多湿であるのが日本の気候の大きな特徴であり、ゆえに『徒然草』にも「家の作りようは 夏をむねとすべし」とあるように、夏に快適な生活が出来る住宅作りが、古来よりなされてきた。材料が豊富にあるのと、湿度の調節が可能であることから、日本の家屋は木材と草と土と和紙によって造られている。高床式の基礎構造に、高い茅葺きの屋根、長い庇、泥壁に畳、和紙を貼った木製の建具。これらは全て天然素材で、湿度が高い時には湿気を吸収し、湿度が低い時には湿気を放出する調湿機能を持っている。建物が大きくなり、屋根が瓦屋根になると、室内には和紙が貼られた明かり障子、襖、衝立、屏風などが配置され、湿度、温度の調節を行った。これら建具用の和紙は、いずれも植物繊維(主成分はセルロース)が原料で、紙自体が多孔質構造で表面積が非常に大きく、水分の吸収脱着を自然に行う。しかも障子や襖は、開け放すことで開放空間の創出が可能で、家中を風が吹き抜ける。また障子や襖で仕切り、屏風や衝立で囲めば冬でも暖かく過ごせる。

寝殿造と建具
平安時代の貴族の邸宅は寝殿造であり、大広間様式で構造的な間仕切りがなく、開口部には蔀戸が設置され、内部は衝立・御簾・几帳・屏風・遣戸・襖障子などの間仕切り(障子)でスペースを区分けして使用し、それらの障子には、絹布・麻布・葛布などを張り、その上から仏画・唐絵・大和絵を描いた。
これらについては『源氏物語』や『源氏物語絵巻』、『餓鬼草紙』、『病草紙』、『春日権現験記絵』、『法然上人絵伝』、『一遍上人絵伝』などに使用状況が描かれており、当時の生活を伺い知ることが出来る。

紙座の成立 -室町時代-
紙屋院の廃絶以後、和紙の生産は地方の生産地に舞台を移していくことになる。この頃には和紙の生産・流通を扱う業者による紙座(かみざ)が形成されて生産・流通を支配していった。紙座は本来は紙を生産して公家や寺社(本所)に納入することで奉仕する供御人・神人などの集団であったが、後に本所の保護を受けて一般の生産・流通にも関与するようになったのである。彼らは本所に商品や座役を納める代わりに営業や身分保障を受けた。代表的な紙座に元の紙屋院の職人達が蔵人所を本所として結成した宿紙上座と新規業者による宿紙下座から構成される宿紙上下座(しゅくしかみしもざ)や奈良南市の紙座、六波羅蜜寺を本所とした紙漉座、美濃大矢田や近江小谷などの産紙の販売権を独占した近江枝村商人(枝村紙座)などが著名である。戦国時代に入ると、国力増強と紙の自給のために紙の生産強化を図る戦国大名が出現した。甲斐の武田信玄が楮・三椏の生産を奨励した逸話は良く知られている。だが、こうした戦国大名の政策は紙座の方針と対立するようになり、織田信長・豊臣秀吉らが推し進めた楽市楽座によって紙座の特権は否定されるようになり、紙商人の御用商人化や生産業者の支配強化が進められることになった。

和紙文化の成熟 -江戸時代-
江戸時代に入ると、社会における紙の需要が高まり、全国各地で和紙の生産が行われるようになった。また、三椏などの新たな原料による製紙も普及するようになり、生産も増大していくようになる。その一方で、各藩では財政収入の強化を図るために和紙生産の特産化、専売制強化を図った。これらの和紙は江戸や大坂の蔵屋敷を経由して問屋などに売却した。また、都市の問屋は江戸中期以後に株仲間を結成して和紙の販売の独占を図るようになった。藩の専売制と幕府の保護を受けた問屋株仲間の独占販売による流通体制が完成したことにより、生産者や小売商は自由な販売を制約されるようになった。これに対して生産業者は抵抗したが、権力の圧迫の前に挫折した。それでも幕末の社会混乱に乗じてこうした支配から脱却して僅かながら自由市場が形成される兆しも現れるようになった。

衝立・屏風
衝立には、軟錦(ぜいきん)と呼ばれる唐錦(綾錦)の幅の広い縁取りが付けられていた。屏風はこの衝立を縦長にした物で、正倉院の『鳥毛立女屏風』のように、当初は各扇が一枚ずつ離れており、その各扇を襲木(押木、縁)で枠を付け、革紐で繋ぎ合わせていた。平安時代に入り、革紐に替わって紙の蝶番が使用されるるようになり、連続した広い画面にパノラマの絵が描かれるようになり、絵の達人で大和絵の創始者とされる巨勢金岡が、時の関白藤原基経の依頼で屏風に大和絵を描いたという記録もある。饗宴や儀礼の際には、母屋と庇の間の柱間に、軟錦で縁取りされた副障子(押障子)を嵌め込み、室礼として使用した。

紋天具帖
紋天具帖とは、極薄の天具帖紙に透かし紋様ではなく、胡粉などで木版摺りした物で、後に型染めで捺染するようになったが、やはり光を漉かして紋様を浮かび上がらせる物で、灯籠用として使用された。

文化財
和紙を使用したこの時代を代表する文化財として、装飾経や絵巻物が挙げられる。

薄墨紙の登場
大量生産されていたと言っても、和紙はまだまだ貴重品であり、贈答品としての価値があったほか、一度使用した古紙を漉き返して再利用する薄黒紙が普及した。
880年に藤原多美子が崩御した清和天皇からの手紙を集めて漉き返し、その紙に法華経を写経して供養している(日本三代実録)。この時代には脱墨技術はないので、漉き返しを行うと、紙の色は薄い黒色となった。このためこうした紙を薄墨紙と称した。

紙屋院紙の変遷
かつて紙屋院紙と言えば、官立の製紙工場から出荷された紙として、高級紙の代名詞であった。しかし、平安末期となると、各地の荘園で製紙が行われるようになって原材料が不足し、専ら紙屋院では古紙や反故紙をリサイクルして漉き返しを行うようになった。
そこで製紙された薄墨紙(水雲紙)は旧・久の意味を持つ「宿」の字を冠して「宿紙」と呼ばれるようになり、もはやかつての高級紙の面影は失われた。こうして、和紙技術の普及という当初の使命を果たした紙屋院は、南北朝時代に廃止された。

武家文化と和紙の変容 -鎌倉時代-
文治的な朝廷から、鎌倉幕府が成立して質実剛健な武士に政権が移行すると、紙の消費層が公家や僧侶から武士に広がって、華やかな薄い紙よりも厚くて実用的な丈夫な紙が求められ、主に播磨の杉原紙や美濃和紙が流通した。

和紙と贈答文化
和紙は、生産量の少ない頃は貴重品として敬意や謝意を表す贈り物として利用され、『御堂関白記』には灌仏会の布施料として、大臣は5帖、納言は4帖、参議は3帖納めた事が記されている。
このような紙を贈答する風習は武家社会にも受け継がれ、一束一本、一束一巻という形式へ移項し、一束一本の場合は扇一本と杉原紙(壇紙・美濃紙・越前紙・甲斐田紙・修善寺紙)一束(10帖)を、一束一巻の場合は、緞子(小袖・絹布・縮緬・葛布)を一巻としてセットとし、水引でまとめるのが慣習となった。

また、贈答品を和紙で包むことも行われるようになり、後に折形という礼法として確立された。

かな文字と手紙
この時代の女性は、手紙を薄い色紙を二枚重ねて仮名文字で書き、末尾には性別を問わず「あなかしこ あなかしこ」と書いた。
正式の手紙は、一枚の紙をそのまま使用して縦に書くので竪文と言う。また、横に二つに折り、折り目を下にして書く折紙もあり、折紙を二枚に切り離した切紙、これを横に継いだ継紙、更にこれを巻いた巻紙もあった。

斐紙(雁皮紙)
雁皮を原料とし、薄様、中様、厚様の三種類製造された斐紙がこの頃流行した。雁皮は日本独自の製紙原料で、流し漉きによる高度な技術によって製造される薄様に特色がある。男性が主にに懐紙として厚手の檀紙を愛用したのに対し、女性は薄様の斐紙を愛用し、『宇津保物語』や『枕草子』に記述が見られる。
最澄は、延暦23年(804年)に留学僧として中国へ渡航した際に、筑紫斐紙200張を献上している。

懐紙
貴族は常に懐に紙を畳んで入れ、ハンカチのような用途の他に、菓子を取ったり、盃の縁をぬぐったり、即席の和歌を記すなどの用途にも使用し、当時の貴族の必需品であった。懐紙は「ふところがみ」や「かいし」、また、畳んで懐に入れる所から「たとうがみ」と称し、後には和歌などを正式に詠進する詠草料紙を意味するようになった。男性は檀紙を、女性は薄様の斐紙を使用するのが慣習となり、正式の詠草料紙には色の違う薄様を二枚重ねて使用した。

詠草料紙
歌集用の紙である詠草料紙には、打雲、飛雲、墨流しなどの様々な製紙技術や、切り継ぎ、破り継ぎ、重ね継ぎなどの加工技術が施されている。
打雲とは、予め漉いた雁皮紙の上に、青や紫に染めた繊維を細長く横に流し、漉槽の中で下辺にゆっくり打ち充てるようにすると、染めた繊維が雲の形に漉かれて行く技法である。墨流しとは、墨滴を水面に落とし、その上に松脂を落として墨を散らせ、これを繰り返して息を吹きかけ、水の流れを表現した墨汁の紋様を、雁皮紙で吸い取って写す技法である。切り継ぎとは、紙を斜めに切断し、切り口を少しずらして重ねて糊付けする技法である。破り継ぎとは、様々な形に破った紙を糊付けし、長い繊維の足が不規則な形を作る面白味を演出する技法である。
重ね継ぎとは、数枚の紙を少しずつずらして糊付けする技法で、濃淡に着色した四枚の薄葉紙と一枚の白紙を使用して、色の濃淡の差を順次重ねると、ぼかし模様になる。この他にも、金銀箔や金銀泥による加工紙など、様々な詠草料紙が作られている。

色紙
王朝文化が熟成すると、白一色の紙よりも次第に様々な色や性質を持った紙を使用するようになり、染紙や加工紙などとして製紙され、天皇の宣命料紙として、紅紙、緑黄紙などが使用された。後には薄様の紙を2枚重ねて使用するのが慣習となり、季節に合わせて上が紅梅、下が蘇芳の「紅梅がさね」、上が白、下が青の「卯の花がさね」、「萩かさね」、「紅葉かさね」などの様々な組み合わせが開発された。

美濃和紙と岐阜の伝統工芸
江戸時代以降、長良川を利用した運輸により長良橋たもとの地域は長良川の重要な港町となり、奥美濃から美濃和紙などの陸揚げが多く、それを扱う問屋町として栄えた。良質な和紙「美濃和紙」を得た岐阜では、岐阜の工芸品である岐阜提灯、岐阜和傘、岐阜うちわが生まれた。美濃和紙は岐阜の伝統工芸には欠くことのできない物である。この問屋町は奇跡的に戦中の岐阜空襲を逃れることができたため現在川原町界隈として整備され、鵜飼観光などで訪れた人々で賑わっている。

洋紙の伝来と和紙の衰退 -近現代-

明治に入ると、欧米よりパルプを原料として洋紙が輸入されるようになった。これに対して日本の和紙製造業者は江戸期における藩の専売制や問屋からの支配からは脱却して以後生産の近代化が図られた。1901年の統計では、生産業者は7万戸・従事者は20万人であったとされている。だが、明治後半から大正にかけて新聞や書籍などの大量印刷が本格化すると、洋紙と比較して生産効率が悪く、インクや印刷機との相性が悪い和紙は次第に洋紙に押されるようになっていった。これに対して生産業者側も三椏などを使ったインクやタイプライター、印刷機に強い和紙の開発によってこれに対応し、海外への輸出も行われるようになった。障子紙や傘紙原料としての需要や昭和前期における戦時経済における洋紙生産工場の軍事工場化などによってある程度の規模は維持し続けた(1941年の統計では13,000戸の生産業者が存在している)。だが、戦後の高度経済成長期における地方の和紙産地での人口減少による後継者不足、洋傘の普及、障子紙などの機械生産の本格化などによって日本の和紙産業は大打撃を受けた。それでも、近年では「地球環境に優しい」自然素材を原料とした紙として再評価する動きも起こっている。

和紙の多彩な用途
和紙は建具の他にも、扇子や紙衣、紙衾、紙布の主材料として使用された。和紙は本来、麻クズを原料として製紙された事から考えれば、和紙を衣料や寝具として利用する事も不思議ではないが、世界的に見て珍しい使用例である。
平安中期に和紙が大量生産された結果、一般に普及し、文房具以外にも利用されるようになった。丈夫な和紙は柿渋や寒天、コンニャクノリなどで加工すると更に丈夫となり、耐水性も向上する事から、傘や笠、合羽などの雨具にも利用された。

防水加工紙
紙に油を塗布して防水性を持たせる加工は、平安時代から始まっており、『和名類聚抄』に油単、油団の名が見られる。
油単とは、一重の紙に油を引いた物で、主に敷物や包装用に使用される。油団とは、数枚の紙を貼り合わせて、荏油または柿油を引いて、更に漆を塗布した物で光沢がある。油紙用の油は、亜麻仁油・荏油 ・桐油などの乾性油を使用し、江戸時代には他の成分を加えた加工油を使用した。雨傘には荏油を使用した。この傘用の防水紙は、「御から笠紙」や「傘紙」と呼ばれ、江戸時代初頭には紀伊の傘紙がよく流通し、需要が拡大するに従って各地でも製造されるようになり、紀伊の高野紙、大和吉野の宇陀紙、美濃の森下紙が傘紙として名を成した。また、蛇の目傘用の傘紙は、本染宇陀、阿波染と呼ばれ、阿波で大量に生産された。




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